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偽文士日碌

十月二十七日(月):815-816

 郡司さんに送られて帰宅。ビールを飲みながら光子と、新さんの思
い出話に耽る。新さんはいい男だった。無口だったが、黙って対面し
ているだけで飽きることのない相手だった。まさに「親の血をひく兄
弟よりも」である。そう言えば言動も風貌も、どこか高倉健を思わせ
た。膵臓癌は発見された時にはすでに手後れなどと言われていて、新
さんはピンポイントの重粒子線治療を受けたため十一ケ月も命を保っ
たのである。膵臓癌が発見されてからは死を覚悟し、おれたち夫婦を
あちこちへ連れて行くのに乗せてくれる筈だった新しいベンツが届い
たのに断ってしまい、歯科の診療をやめ、ドイツから購入した貴重な
楽譜を大量に楽団へ寄付した。彼のトランペットとおれのクラリネッ
トで何度か共演したことのある楽団だ。自分のことが書かれているか
らと角川書店の「偽文士日碌」第一巻を通院している医者に読ませた
らしい。医者は「あなたは新さんだったんですね」と言ったそうだ。
幸せな一生だった、と喜美子さんに言っていたという。おれなんかに
はとても言えない言葉だ。ノートに、いつの間に書いていたのか、女
は喜美子さんだけであったなどいろいろなことを二人の息子に書いて
いたと聞いた。楽に、早く死ぬつもりだったのだろう、最後の二ケ月
は抗癌剤も拒否し、酸素吸入も拒否し、自分の力で死んで行った。ま
さに男の中の男である。とても真似できない。
 明日は帰神。明後日はビーバップの収録。その夜六時からは京都で
岡本家のお通夜なのだが、これは伸輔に代理で行ってもらい、その次
の日の葬儀には参列する。
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