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偽文士日碌

二月二十八日(金):1255-1256

当てを受け呼吸が70にまで低下し、これ以上下がると危ないと言われ
たものの、やがて98に回復して安定した。しかし医師はすぐ両親に来
て貰ってくれと言っているので、二十四日の正午過ぎ、われわれ夫婦
はすぐに上京、東京駅まで来たときに智子から電話があり、ここで初
めて伸輔の死亡を知る。集中治療室に入っていると聞かされていたが、
駄目だったのだ。永眠十二時二十三分。
 亡骸はすでに伸輔の住いの近く、鎌倉の小坪にある誠行社という斎
場に移送されていた。恒至も来ていて、母親と共に悲しみに沈んでい
る。祭儀を司る担当の田中君と打合せ、大阪の三津寺に電話をして住
職と相談、何も食べていない智子と恒至を連れ四人で上海飯店に行っ
て食べさせる。
 二十六日、通夜は三津寺から駆けつけてくれた住職の読経で午後の
五時から行なった。家族葬でひっそりと行うつもりが、伸輔の所属す
るミズマアートギャラリーにだけは智子が連絡していたため、十人く
らいのつもりがなんと四十人にもなり、三瀦末男はじめ会田誠たちミ
ズマ所属の画家やスタッフ、大駱駝艦の村松卓矢など、伸輔と親しか
ったほとんどの人が来てくれて、これはたいへんよかった。あとは近
在の智子の親族。伸輔は皆から愛されていて、三瀦さんはじめ、泣い
ている人が多かった。夜は住職と同じパークホテルに一泊。
 翌朝は十時から本葬だったが、ずいぶん遠方なのに足の悪い三瀦さ
んはじめ通夜に来てくれた人の多くがまた来てくれ、また泣いてくれ
た。花に埋まり、伸輔は美しかった。この顔にもう二度と逢えないの
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